松村呉春

松村呉春松村景文塩川文麟幸野楳嶺竹内栖鳳岡本亮彦


松村呉春墓
(京都一乗寺 金福寺内)
此には師「蕪村の墓」も在る。



 豊彦を語るときに是非とも目を向けなければならないのが、師の松村呉春であろう。四條派の開祖と言われる呉春、資料も多く出ているので素人の私が今更述べることも無いだろうが、私なりの呉春像を書いてみたい。

 松村月渓(呉春)、名は豊晶。字は伯望、允伯、存伯、通称嘉右衛門。京都の人で代々金座の平役人(1752〜1811)

 先日、蕪村の墓の在る京都、一乗寺の金福寺を訪れた。そこで偶然に呉春と景文の墓を見つけた。
呉春が蕪村の弟子であることは知っていたが、応挙の墓は太秦に在り、呉春の墓が蕪村と同じ所にあるというのは、応挙と呉春の関係よりも、蕪村との繋がりの方が強いと考えても間違いないのだろう。

 呉春、松村月渓は京都の金座の役人だったとか。
 「名は春、字は伯望、允伯、有伯などといった。通称林は嘉右衛門といった」と資料にはあります。
絵は初め大西酔月に習った様です。大西酔月は望月玉蟾に絵を学んでいる。
 望月玉蟾は北宋派から南宋を

 どちらに学んだとしても南画を学んだ事に違いは無いでしょう。その後、蕪村の門に入り俳句と画を学びます。

 その後、應擧の門を叩く事になるのですが、その時の事を口の悪い連中は「うだつの上がらない南画を捨て金の為に、隆盛の應擧に走った」と噂した…?

 呉春が應挙の門に赴いたのは、應挙に説破されて『足下の文人画寔に佳であるが、勅命によつて畫くものは、文人画では採用されない』と言はれたので、その翌日から舊習を破って應挙風になつたと傳へられるが、この一事をもつて見ると、呉春が改宗の理由は、御用絵師たらんとしての軽薄な意思であるが、應挙が斯かる言辞を弄したか否かは、俄に信じたくないのである。

 応拳の研学をもつてしては、北宋と共に南宋の長所も知悉していたのであつて、それは応挙の作品を見れば首肯されるこであるが、当時の南宗畫の傾向は、應挙の喜ばなかつたところであつて、應拳の主義としては、形美をもつて神を傳ふるに在つたから、形を軽視して得々たる南宗一派の徒は、その主義として嫌悪し、またその性質としても決して相容れなかつたので、茲に南宗派の弊?を呉春に向つて説破したので、言たまたま以て勅命畫に及んで、その一例を挙げたのでもあつたであらう。而も呉春の俳句は、蕪村を学んで共に写実派の俳句であつたから、應拳の主張は、呉春の敏感をもつて直ちに共鳴するところとなつて、南宗の舊?を捨てゝ写生の新天地に?翔(こうしょう)したものであった。

 これを以て世の論者、或は呉春の改宗を、南宗の環堵蕭條たる貧生活を厭つて、世間に歓迎され門前市をなす應挙一派の生活に眷戀し、剰へ應拳に功利をもつて説かれた結果である如く思惟するのも、一理の存するものではあるけれども、彼は苟も俳人月渓である。蕪村の臨終にはその妻女や娘と、妃楳亭等の弟子と共に侍してゐた俳人月渓である。他の吮筆者流とその撰を異にするものがあるから、功利に左右せられて蕪村を拾てたものではあるまい。

 成程、月渓の俳句には、師の蕪村の如き骨、太宗芭蕉の如き寂は見出だされない、また富貴を浮雲視する底の気魄もなく、一言にして言へぱ南宗風趣に乏しいから、彼の俳句を透して見れば、南宗から写生派に赴いたことは自然の結果であるとも考へられるので、即ち彼の性格の然らしめた当然の帰着であつて、それが功利的性格であると言ふことは、余りに残酷であらう。

 何となれば、呉春の性は恬淡であつて、決して畫料を貪らなかつた、のみならす、俗士の金帛を厚くして畫を求めるものは甚だ嫌悪し、謝料は薄くとも、自分の心に適ふものには喜んで輿へたから、大名を博した後でも家は常に貧しかつたと言はれる。これは事実のやうである。應挙が当時の畫人を品評して『月渓といふ若年の者が、こわき者是れ一人である』と夙に折紙をつけたに見るも、呉春の性格と畫才を洞察した應挙の聡明である。いかに畫才の優れたればとて、性格の卑しきものを賞する筈がないからであつて、古人の畫技を論ずることは概ね斯くの如きものであつたから、況んや謹直な應挙が、功利に走るものを賞讃する筈がないので、これは應拳の性格を知れば、従つて呉春の性格も理解されよう。

飯塚米雨「四條派概論」より

 多分、その後の彼の行動を見ると、蕪村から人生にとって大事な事を学んだのだろうと推察します。
 例えば、呉春は絵の具を買う金にも困っていた蕪村の為に花街で似顔絵を描いたりと師匠の為に頑張っています。そこまでやるのはやはり師匠から大事なことを学び、その恩に報いたいと思っていたからに違いありません。
 呉春がそこまで感銘を受けた蕪村と言う人間が益々私の頭の中で大きくなります。不勉強な私には彼の俳句からはそれほどの感銘を受けることが出来ません。一寸待って下さい。俳句で感銘を受けないから良いのかも知れない。と逆説めいた事を今思いつきました。

 呉春は今で言えばマルチ人間だったようです。彼の芸術的感性は絵画という一つのジャンルに留まらず,多才だったようです。