岡本亮彦

松村呉春松村景文塩川文麟幸野楳嶺竹内栖鳳岡本亮彦

京都御所御学問所 菊の間の襖絵
襖12面の内の1面の部分


幼名 保吉 字を士朗 号:暁翠園


生涯

 亮彦は小栗半七の4男として文政6年(1823)7月21日尾張国知多郡半田村(現愛知県半田市)に生まれる。
 亮彦の父半七は号を伯圭、素軒。呉春門下十哲の一人で、家は”修問館”といい画のほか、詩文、和歌にも堪能で隷書にも巧みであった。
 伯圭は豊彦と同門であり、また親しい間柄でもあったため絵に素質の有る亮彦を豊彦の門に入れた。亮彦は豊彦のもとでみっちり四條派の技法を学び、その才能を認められ豊彦の養子となり澄神社を継いだ。中国、北越を遊歴し、豊彦の父のゆかりの備中水江村にも住んだ。その後、東北に遊び、明治十六年(一八八三)十一月十八日、享年六十で、金沢で客死した。遺骨は同所卯辰山に葬った。法名、澄神院畔生亮彦居士。


作風

 四條派は呉春が円山応挙の写実に蕪村の南画風を加味して作り上げた。
 豊彦は師呉春の教えを踏襲しながらも、より文人画によった思想を持っていたようだが、跡を継いだ亮彦は写実的な方向に進んだように思える。
 それには勿論当時の西洋文化のからの影響を先達よりも遙かに多く受けていた事によると推察する。


同族の絵師

岡本常彦 通称典馬 字確乎、竹廉ともいう 号 菱邨
 文化十三年(一八一六)二月五日、水江村に生まれた。
 嘉永5年および慶応3年の平安人物誌に掲載

 常彦は豊彦の異母兄である助之丞行兼(文政13年歿)の男で豊彦の甥である。
 豊彦に絵を学び、一時は豊彦の後をつぐことになっていたが実家の都合により倉敷に呼び戻される。
 豊彦に絵を習うかたわら仁科白谷について漢書を読むことを学んだ。中年のころ、長崎に遊び書画を研究し、後、水江村に帰り、書画漢籍を修め、子弟を教育した。また彫刻にも堪能であった。特に版画は彼の得意中の得意であったという。明治初年、岡山版画の下絵はほとんど常彦が描いていたともいわれている。岡山県に出仕し、教科書の挿絵などを描いていたが、明治二十四年(一八九一)十一月二十三日年七十六才で歿した。妻は蜂谷氏を配したが子がなかったので甥に当る文彦(亮彦の男)をして後をつがせた。


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